式根島は北緯34度19分、東経139度13分、東京からの約160kmに位置する3.88k㎡の小さな島です。ブルーグリーンの海の色や白砂から南の島のイメージがありますが、緯度的には、伊勢志摩や淡路島、高松、因島と同じです。

この式根島はどのように誕生して、今の暮らしを営むようになったのか、歴史を紐解いていきましょう。
火山島・式根島の誕生
式根島が属する伊豆諸島の島々は、富士山を北端としてグアム島まで連なる富士火山帯の海底火山の山頂が海の上に現れたものです。

式根島は、14000年前の式根島火山の噴火活動で誕生しました。粘りのあるガラス質の黒雲母流紋岩(コーガ石)の溶岩に覆われ、西側に100mほどの溶岩円頂丘を抱き、リアス式海岸が特徴的な台地状の島となっています。蛤のような円弧状の入江は熱い溶岩が海底に流下したときに起こった二次爆発でできた跡地とされています。

式根島の地層は100m以上の厚さの溶岩でできており、その上に神津島天上山の火山灰が20~30cm、その上に新島の向山の火山灰が50cm~350cm積もっています。
■3Dで式根島の地形が見られる国土地理院サイト
縄文人が暮らした名残
人が住んだ痕跡は古く、約8500年前の縄文時代早期に遡ります。神津島の黒曜石を求めた縄文人が丸木舟で到来し、住み着いた名残が、島内に点在する遺跡で多数確認されています。遺跡からは、海獣葡萄鏡をはじめ、祭祀に用いる須恵器などが見つかっています。
時代 | 出来事 |
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数万年前 | 伊豆諸島の誕生 |
14000年前 | 式根島の誕生(式根島火山が噴火) |
紀元前6500年頃 縄文時代早期 | 人が定住し始める(遺跡より) |
838年 平安時代 | 天上山噴火(神津島)の火山灰が式根島下部の地層となる |
886年 平安時代 | 向山噴火(新島)の火山灰が式根島上部の地層となる |
参考:新島村博物館研究紀要「海面変動下での新島単成火山群の形成について」
参考:新島村博物館研究紀要「新島・式根島の植物相」
参考:地質調査総合センター「詳細火山データ集 地質各説 – 式根島 -」
新島の属島・庫島として利用された無人島
しばらく記録がない時代が続きますが、江戸時代からは文献で式根島の様子がわかります。
江戸時代の伊豆諸島は幕府直轄の天領で、それぞれの島の名主・村役を中心に暮らしていました。当時の式根島は新島に属する無人島で、流人を新島や八丈島に運ぶ際の仮泊港、新島で製塩で必要となる薪に用いる木が足りなくなった時に臨時に製塩する場所、湯治場、漁場でした。
現在「式根松島」と詠われる黒松は、もともとは薪材として植林されたものです。
なお、製塩に使用された塩釜は、今でも哀しい伝説とともに、釜の下海岸に残っています。

時代 | 出来事 |
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1642年 寛永19年 江戸時代 | 10年ほど式根島で塩作りを行った |
1815年 文化12年 江戸時代 | 伊能忠敬測量チームが測量を行った |
開島して人が定住した明治時代
明治維新から数年、伊豆諸島の所属は二転三転し、最終的には東京都に所属しました。国境の離島しての重要性、それを支える力があるのが東京都だったのでしょう。式根島は、神奈川県の豪商から買取りの申し出があり、それに驚いた新島村が従前どおりの新島所属を嘆願して認められました。
新島村が本格的な式根島開島(島民移住)を急務としたのは、1889年(明治22年)静岡県出身の齋藤清左衛門が新島村と事業契約を締結し伊豆七島中央物産会社が野伏に本店を置いたことがきっかけと考えられています。静岡県の鰹を式根島に水揚げして鰹節を製造、20人ほどが働き、漁閑期には港や道路の整備を行い、発展に大きく貢献しました。そして、とうとう、式根島に1889年(明治22年)に新島村から4世帯8人(うち単身1人)が移住して開島になりました。
1893年(明治26年)には、近県漁船の避難港であった式根島泊浦の重要性が認められ、東京府・神奈川県・千葉県・静岡県の共同事業として、日本政府から補助を受けて整備されました。この事業は、初の国庫補助による漁港整備事業と言われています。
定住にあたり深刻な問題は水の確保でした。式根島まいまいず井戸は、1890(明治23)年から、3年の月日をかけて、20人足らずの島民と新島の協力者で完成させた悲願の掘井戸で、島民の生活、経済、産業を急速に向上させ、集落はこのまいまいず井戸を中心に広がっていきました。地下水位の深さから、らせん状に通路を作って掘り下げた原始的な井戸を、その形状より、「かたつむり=まいまい」になぞらえて、まいまいず井戸と呼びます。
時代 | 出来事 |
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1868年 明治元年 | 明治維新で韮山県となる |
1871年 明治4年 | 足柄県となる |
1872年 明治5年 | 神奈川県の豪商が式根島を買いたいと申し出る 新島が驚いて式根島の新島所属維持を嘆願 |
1876年 明治9年 | 静岡県となる |
1877年 明治10年 | 式根島は従前どおり新島所属と決定 |
1878年 明治11年 | 東京符に編入される |
1888年 明治21年 | 4世帯8人が移住して開島 |
1888年 明治22年 | 静岡県出身の齋藤清左衛門が新島村と事業契約を締結し 野伏に伊豆七島中央物産会社の本店を置いた |
1893年 明治26年 | まいまいず井戸を3年かけて完成 |
1908年 明治31年 | 日本政府初の国庫補助の漁港整備事業で泊浦が整備された |
1913年 明治36年 | 式根ヶ沢に学校の分教場が開校 |
1909年 明治42年 | 泊浦の築港工事で来島した静岡県の石工職人3人と島の有志で 船でしか行けなかった地鉈温泉に降りる道を造り付近を整備 |
1910年 明治43年 | 式根島尋常小学校が開校 |
1912年 明治45年 | 戸数が30戸をこえる |
インフラ・航路整備し観光地として発展
大正から昭和にかけて、式根島は航路、電気、水道と暮らすのに必要なインフラを整え、湯治や海水浴ができる観光地、釣り場、キャンプ地としての歴史を歩み始めます。
各家庭に電気や水の確保もままならなかった1938年(昭和13年)に、自家発電所や揚水用電動ポンプを備えた式根島温泉ホテルが東京湾汽船によって開業し、船も運航し、多くの著名人が来島しました。俳人・与謝野晶子は「波かよう門をもちたる岩ありぬ式根無人の嶋なりしかば」と他1句を詠みました。
太平洋戦争中は、南方の戦線に近い伊豆諸島は要所として、島民を大きく上回る数の軍人が駐留しました。式根島温泉ホテルは、戦時中、軍人の宿泊所となり、米軍の攻撃を受けて一部損壊、戦後に取り壊しとなりました。今も、山中に残る大きな穴は、敵の攻撃に備えて、軍用に駆り出された島民が掘ったとのことです。
島民の多くは疎開をし、終戦後帰島を果たしました。

戦後の高度成長期、国民所得の向上にともなって、1961年(昭和36年)にレジャーブームが起き、式根島はキャンパーなどの来島者が急増。式根島の島民は民宿経営を始めました。これは、東京都の島々のなかでもさきがけであり、各地から視察が訪れました。

来島者が増加したことから、水不足の深刻さは窮まり、島民の訴えより、1970年(昭和45年)に脱塩浄水場の運転がスタートしました。しかし、離島ブームでさらに水が足りなくなりました。結局、東京都の支援によって整えられた1976年(昭和51年)の新島からの海底送水によって、式根島開島以来87年に渡る水問題は解決しました。電力は、1986年(昭和61年)になって、ようやく新島から全日送電を開始しました。
いずれにしても、本土に比べ、水、電気のインフラ整備は相当遅れており、いかに島民の暮らしを長年圧迫したかが偲ばれます。
1986年(昭和61年)には式根島は開島100周年を迎え、大規模イベントの開催や記念誌が刊行されました。先駆けて前年に松竹映画の「男はつらいよ」のロケ地誘致に成功し、島をあげて惜しみない協力をしました。往時の式根島の様子は、今もなお、名作映画の中で息づいています。
その後、多様化する滞在スタイルのニーズに合わせて、式根島の観光は発展と模索を続けています。
島内の人口問題や減便、変化する自然環境など多くの課題はありますが、これからの未来に向かって邁進してまいります。


時代 | 出来事 |
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1919年 大正8年 | 新島ー式根島間を定期船「日航海」が結ぶ |
1926年 大正15年 | 東京湾汽船 就航 静岡県沼津ー清水ー松崎ー下田ー新島ー式根島ー神津島 |
1930年 昭和5年 | 宮川たんさんが5年がかりで高森灯台を作る |
1938年 昭和13年 | 東京湾汽船(東海汽船の前身)が式根島温泉ホテルを開業 ※戦時中に軍人宿舎となり、米軍攻撃の被害もあり取り壊される |
1938年 昭和13年 | 俳人・与謝野晶子来島 「波かよう門をもちたる岩ありぬ式根無人の嶋なりしかば」 |
1942年 昭和17年 | 東海汽船が航路再編し就航 下田-新島-式根島-神津島 |
1952年 昭和27年 | 式根島中学校が発電機で電気を灯す |
1954年 昭和29年 | 漁業協同組合から各戸に時間限定で送電開始 |
1956年 昭和31年 | 艀(はしけ)の菊丸が1日2回新島-式根島間を運航 |
1966年 昭和41年 | 第一次離島ブーム ピークの1973年は東海汽船年間乗車数が264万人を記録 |
1970年 昭和45年 | 一日に清水200トンつくる脱塩交換装置を用いた簡易水道が設置 |
1972年 昭和47年 | 村営の木造船にしき(初代)が就航 1日3回新島-式根島間 |
1976年 昭和51年 | 新島からの海底送水開始 |
1978年 昭和53年 | 貨客船ふりいじあ丸が就航 東京-伊豆大島-利島-新島-式根島-神津島 |
1979年 昭和54年 | 式根島港の運用開始 |
1980年 昭和55年 | 村営の高速船にしき(二代目)が1日3回新島-式根島間を運航 |
1985年 昭和60年 | 男はつらいよ36作 ロケ地となる |
1985年 昭和61年 | 旅客船かめりあ丸就航 |
1986年 昭和61年 | 新島からの全日送電開始 |
1986年 昭和61年 | 開島100年 |
1990年 平成2年 | 養殖真鯛を出荷開始 |
1992年 平成4年 | 貨客船二代目さるびあ丸就航 東京-伊豆大島-利島-新島-式根島-神津島 |
1993年 平成5年 | 松ケ下雅湯オープン |
1999年 平成11年 | 村営の高速船(バリアフリー仕様)にしき(三代目)が運航 |
2002年 平成14年 | 高速ジェット船 3隻 就航 セブンアイランド愛、セブンアイランド虹、セブンアイランド夢 |
2013年 平成25年 | 高速ジェット船 セブンアイランド友が就航 |
2015年 平成27年 | 高速ジェット船セブンアイランド夢の代替船として セブンアイランド大漁が就航 |
2020年 令和2年 | 貨客船三代目さるびあ丸就航 東京-伊豆大島-利島-新島-式根島-神津島 |
2020年 令和2年 | 高速ジェット船 セブンアイランド結が就航 |
トリビア
- 松ケ下雅湯は式根島温泉ホテルの浴場跡地にできた
- 新島村村営の高速連絡船「にしき」は新島の「に」と式根島の「しき」からネーミング
参考文献・サイト
伊豆諸島を知る辞典 樋口 秀司(編) 出版社 : 東京堂出版 (2010/9/1)
離島伊豆諸島の歴史―風土・伝説・生活 段木一行 発行元:武蔵野郷土史刊行会 発売元:明文社
式根島開島百年史 出版者:新島本村(1987/5)