塩釜の跡

史跡「塩釜の跡」

釜の下海岸の由来となった、式根島の製塩は、江戸時代の、1642(寛永19)年から1652(承応元年)の10年間行われたと言われる。この製塩作業は、もともと天領の新島で塩を年貢として納めていた36人の釜衆が、海岸や砂浜を使った揚浜式の製塩を行ない、今も、潮が引いた海岸に、塩釜跡の石垣の遺構を見ることができる。案内板には、過酷な年貢にまつわる悲劇の伝説が記され、供養碑や祠が島民の手で守られている。

塩釜伝説では、浦方の船頭新八は、年貢塩の不足に身の潔白を示し、煮えたぎる塩釜に投身したので、その後、式根島での製塩は止んだといい、女房のお福のことも悲しく語り継がれている。
当時の遺跡は、波で流されたり、この付近に深く埋まっている。丘上の供養碑は明治に建てられたものである。

昭和六十二年九月二十五日指定
新島村教育委員会

DATA
江戸時代の塩釜の跡