今回は、式根島を訪れるお客様の層の移り変わりと、伴って変化してきたひだぶんの様子を書いてみたいと思います。

[上記画像]式根島開島130周年記念誌より引用

1960年代後半頃~「キャンプ全盛~民宿開始/第一次離島ブーム」

私が3〜5歳の物心ついたころ、夏になると石白と釜の下の海岸いっぱいに黄色と赤のテントが張り巡らされました。今思うと大学生くらいのお兄さんお姉さんだったようでした。

[上記画像]式根島開島130周年記念誌より引用

母親に「キャンプいっちゃーダミダド!」と言われたけど、物珍しくて覗きにいってはギブミーチョコレートよろしく、お菓子をもらったり、遊んでもらったりして何食わぬ顔で徒歩1分の家に走って帰っていました。

そんな状況でしたが、台風や荒天時に、島民の家に避難したのをきっかけに親しくなって毎年来るようになった方を受け入れるため、増築増築で民宿が始まった記憶があります。今の民泊のような感覚ですが、現金収入のなかった島では重要でした。

その頃の肥田文は、まだ土間のオカッテに、五右衛門風呂。3畳ほどの囲炉裏のある居間のような所と6畳の部屋(アラトと言います)、奥に4、5畳の部屋(奥の部屋という意味のディーと言います)があるだけの、昔ながらのままの家でしたから、お客様を泊めることはできませんでした。

そこで、両親が広い庭を活かして、ビアガーデンを始めました。これは、6〜8歳ごろのことです。

式根島には娯楽がなかったので、民宿泊の方は17時からの食事が終わると、暇つぶしに一斉に石白川海岸に向かっていました。そして、提灯に誘われるように肥田文ビアガーデンに吸い込まれる人の流れがありました。

子供心に自分の家が、民宿ができないのが悔しかったのですが、商売があたって、ちょっとドヤ!って気持ちでした。3年間くらいやってから、両親は資金繰りを付けて新築で民宿肥田文を始めました。

1970年代~80年代「若者でにぎわう島からファミリーへ」

[上記画像]式根島開島130周年記念誌より引用

民宿を始めたころの頃のお客様は、ほとんどが大学生や高校生の男子グループと女子グループでした。いわゆる新島ナンパ島の時代です。やがて、週刊誌に取り上げられ、学校にも言われたのか女の子は少なくなりました。

バブルの好景気や円高の影響で、旅先は沖縄や海外が増え、いつの間にかナンパブームは去り、新島はサーフィンの若者で賑わいました。一方、式根島は入り組んだ地形の入江を活かした、穏やかで安全なビーチがいくつもあることから、ファミリーが多くなって来ました。夏休みに入ると、8ルームのお客様はほとんどファミリーでした。

1980年代から2000年代「ダイビングブームを経て、増える一人旅」

私が東京の内地で就職し、23才で島に戻った頃、ダイビングブームがおこりました。肥田文は、コンプレッサーの設備を入れたので、連休や秋は、大学のダイビング部が合宿に利用してくれました。

その後、2002年にジェットフォイルが就航してからは、色々な層の方々、とくに小さいお子様連れやアイランドホッピングで島巡りをする一人旅が多くなり、お一人様のお客様を受け入れる部屋を作る必要があるかな?と思い、手直ししたかった部屋を改装してドミトリーの形式も取り入れゲストハウスひだぶんとなりました。

2019年「台風被害をきっかけに、多様化するニーズに応える大改築」

2019年9月に発生した台風15号は、式根島に大きな被害をもたらしました。ひだぶんも屋根が飛んでしまい、1階まで雨水が滝のように流れる大被災です。

いったんは廃業もよぎったものの、やはり式根島でおもてなしの仕事を続けたいと思い、これを機会に、さらに色々な人に訪れていただく宿にしようと考え、バリアフリー化を決意しました。


おかげさまで、多くの人や行政の協力を得て、ゲストハウスひだぶんの1Fは2021年に完全バリアフリーとなり、どんな方でも安心していらしていただける宿になりました。


同時にコロナ禍で需要を増したワーケーションの受け入れにも力を入れ、高速Wi-Fiを完備し、長期滞在プランを用意。2022年には、右腕となる頼れる二人のスタッフに恵まれ、現在の営業スタイルが完成しました。

これからも、お客様のニーズに応えるため、自炊アシストメニューの導入など新しいことに挑戦しながら、進化していきたいと思います。


参考リンク1️⃣キャンプ時代の様子がわかる椎名誠氏:式根島「山田事件」1972年

参考リンク2️⃣当時の新島の伝統的な間取りと使われ様がわかる

参考リンク3️⃣ジェットフォイル「結」就航当時の記事